地域活動支援センター なっつ[高田エリア]

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体験談/当事者作品

当事者体験談(1) 男性

当事者体験談(1) 男性 イメージ

 私は高校2年生17歳の時に発病しました。発病の原因は、何もかも頑張り過ぎていたのが原因だと思います。

 学旅行の前日に頭の線が一本切れたようになりました。かなり苦しい修学旅行でした。目は空いているのですが、まるで眠っている時のように、意識がないみたいな感じで、かなりおかしかったようです。いつも一緒にいたクラスの友達も、僕のそばから離れていきました。軽いいじめにも遭いました。
 修学旅行が終わって、両親に「病院に連れて行ってくれ」と言ったのですが、「疲れてるだけや。寝てたら治るわ」と、まさかこんな病気になっているとは考えもつかないようでした。それから何日かして私は、泣き叫んだり、ニヤっと笑ったりしていたそうです。覚えているのは風呂で体がガチガチになって溺れたことと、鏡を見ると小学生の頃の自分になっているように見えたことです。

 そんなことがあり、親が病院へ連れて行ってくれました。病院で薬を処方してもらって飲むと、2日くらいで我に返る事ができました。しかし、我に返れたものの1年間はほとんど寝て暮らすという日が続きました。

 高校も一つは中退しました。中退する時は「これから違う道があるさ」とショックはありませんでした。逆に親のほうがショックを受けていたようでした。高校を中退してまず、大学入学資格検定の予備校に行きました。入ったものの授業に出たら頭が濁ってきて途中で行くのを辞めてしまいました。それからまた家でぶらぶらして、単位制通信制高校に入学しました。土・日だけの学校だったので、バイトをしながら行っていたのですが、高校は卒業したものの、バイト中にパニック障害や被害妄想が出たりで続かず、「これから先の人生真っ暗だ…」「これからどうやって暮らしていけばいいんだ…」と苦しんだ時期もありました。
 いまでは障害者として雇用してもらったほうが、症状が出たりした時には、少し融通がきくと思うので障害を表に出していくほうがいいと思うのですが、その当時はまだ若く、「自分は薬は飲んでいるものの障害者ではない!」と思っていました。30歳くらいまで、しんどくなって、仕事を辞めて、また面接に行ってという感じで仕事を転々としていました。その当時、職場の先輩からカップリングパーティーに誘われていくことになりました。そこで出会った女性の人と1年間位付き合いました。別れてからある日、ふとその女性のことを思い出し、その女性のメールアドレスを何とか思い出すことできないか、そして連絡を取ってもう一度やり直せないかと思い、一生懸命何時間もパソコンに食らいつきました。そのせいで疲れが出たのか、車のウインカー・テールライト・電気の点滅・目の瞬き・手の動き全てを、『言葉』に変えて取るようになり、その言葉を頼りに元彼女の家を探しにいきました。人の手の動きや目の動きを、自分流の捉え方で判断し、彼女の家を決めました。そして「もう一度やり直してくれ!」と大声で何度も叫んでいました。すると隣のマンションの人が通報したのか、警察がやってきて「何してんの?」と警察まで連れて行かれました。関係妄想が関係妄想をうみ、その時の私は訳がわからなくなっていました。
 何故かその時は、韓国に行って元彼女と一緒に暮らし、ギターのプロになれると思いこんでいて、父と母ともお別れなんだと思い、診察を受けに行く車内で泣いていたのを覚えています。次の診察で、私は入院することになりました。
 入院中は近くにいる人から幻聴が聞こえてきました。ある夜、眠れなくてテレビを見るところに置いてあるノートを見ていると、『それは私があなたのために書いたんやで』『次の外泊の時、2時に生駒の壱部まで来て。待ってるわ』と聴こえ、それが幻聴と分からず壱部までいって待っていたのを覚えています。
 入院中、親指を見るとなにか黒いものがついていました。『それを取ったらお前の身体についている盗聴器はすべてとれる』と聴こえてきたので、それを必死に取っていました。それを取ってどんどん良くなっていって幻聴も聴こえなくなり正常に戻って退院しました。約3ヶ月の入院でした。2回目の入院の時は1ヵ月に2回も東京に行ったりして、無理をしすぎて、また幻聴と妄想で入院しました。
 2回目の入院の後は、家に返っても非常にしんどく、「このまま死んでしまえばいいのに…」と思うことが多々ありました。2回目の入院後、人と話すのもしんどく、外へでるとどう説明したらいいのか分からないのですが、不安が襲ってくるなどがあり、投げやりの状態が続いていました。

 退院して次の年、地域活動支援センターなっつに通うようになりました。メンバーはみんな優しくしゃべってくれました。なっつに通い始めて1年目の12月に、3回目の入院をしてしまいました。今回の入院の前は、病院へ行くとみんなが敵に見え、すべての人にメンチ切って歩いていたり、『自分は殺される』と思い、遺書を書いて先生に渡したのを覚えています。それと入院する1ヵ月くらい前には、寝てばかりだったのを覚えています。その他にも親が言うには、起き上がって踊っていたりもしていたらしいです。

 3回目の入院なのですが、いままでに2回入院していた病院でなく、違う病院に入院することになりました。何度も保護室に入れられ、6ヵ月目まで外へ一歩も出してもらえませんでした。その時は、外泊中に家出をして警察沙汰にもなりました。入院中はとても寂しく、施設の職員さんが面会に来てくれた時は、とても嬉しかったです。また寂しいので、特定の彼女が欲しいと思い、看護師さんに五人ぐらいに告白しました。目の、まばたき等を勝手に言葉にしてしまうという症状が強くかなり苦しかったです。あと、幻聴もいろんな人からしょっちゅう聴こえてきました。
 入院して7ヵ月目の外泊の時、まだ訳がわかっていない状態で、親に『絶対病院には戻らない』『退院したいって言ってくれ』と、かなり無茶苦茶に怒っていました。すると、先生と話してきてくれ、まだ幻聴も聴こえ、足や手や目等を言葉に変えて取ったりする症状が治っていなかったのですが、退院という形になりました。退院したものの、症状が取れていなかったので、何でも売っているリサイクルショップで店員さんから、『あなたはギター担当だから、今日はアンプを調べて、キレイに並べてくれ』と聴こえてきたので、雇われてもいないのに、アンプが鳴るかどうか一個一個調べたり、置き方を変えたりしていました。あと幻聴が聴こえてきて、『4万円で売っているギターが本当は14万円なんだ』とか、『このギターは、かなり高いんだ』等聴こえてきて、ギターを五本ぐらい買ったのではないかと思います。その時は、貯金のほとんどを、いろんな物に使っていました。なっつにもたまに顔を出していたのですが、なっつでも幻聴の言うがままに行動して、無茶苦茶だったのですが、スタッフの人たち、メンバーさんは何も言わず、見守ってくれました。病院も元の病院に戻り、15年間お世話になった先生と違う先生に変わり、2回目の診察の後、『何かがおかしい』と思い、なっつに電話して話を聴いてもらい、足音で何でも表現できる等、解読してもらったおかげで我に返ることができました。

 薬も自分に合ったのでしょうか、幻聴も聴こえなくなりました。何か今まで違う世界にいたような感じでした。我に返ってからは、週一回火曜日、しゃべり場に通うようになりました。しゃべり場では、『今日の調子と、何故そういう状態なのかという理由』、『自分の病気に病名を付けたら、またその理由』という感じに、お題が出されます。そのお題に沿って答えていくという感じの事をします。口外は一切禁止というルールなので、症状の話や、恥ずかしいと思っている事でも、何でも話す事ができます。また、他の人が話しているのを聴いて、『あぁ、自分と同じような事で苦しんでいるんだな』、『こういう症状もあるんだな』と共鳴したり、勉強になったりもします。また、自分の事を話す事によって、自分自身の振り返って見つめる事もできます。調子の良い時は週三・四回なっつに行きます。なっつでは、しゃべり場の他に、みんなで夕食を食べに行ったり、みんなで作って食べたり、いろんな行事があります。まだ偏見の多い中、働くことも、まだ出来ない僕たちにとっては、必要不可欠な場所だと思います。

 それと体験談発表にも2回参加しました。ホームヘルパーさんの前で話すのがメインだったのですが、なっつのしゃべり場でも話していたし、なっつへ来ていろんな人たちと出会って、いろんな人たちと会話する中で病気の事もそんなに隠さなくてもいいんじゃないかと思い始め、20歳前後は病気を隠そうと思っていたのですが、今はちゃんと先生に診てもらって、「薬をしっかり飲んでいれば恐い病気じゃない」という事を解ってもらいたい、精神障害への理解を少しでも持ってもらえたらなぁと思っています。確かに、偏見はまだまだ残っていると思います。まだまだ未熟な私ですが、それに立ち向かっていけるたらいいぁと思っています。

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当事者体験談(2) 女性

当事者体験談(2) 女性 イメージ

 私は統合失調症と言われています。
 私が発症したのは24歳の時です。24歳の時の私は、ある病院で看護師をしていました。その時の彼氏が東京に行ったので私も東京の病院に行こうと思い勉強に励みました。その時から盗聴器をしかけられている様な気がして自分の家に人が入り込んでる気がしました。その他にも横断歩道ですれ違う時に、『臭い』と言われている様な気がしたり、料理を出される時にウェイトレスに『臭い』と言われている様な気がしました。その時には私は精神病だと気付きませんでした。

 結婚する前に、やりたい事は、やっておきたいと考えアメリカに留学しました。その時、アメリカのデパートで『これを買いなさい』、『あれを買いなさい』という幻聴があり、たくさんの物を買いました。そして、ホームスティ先の子どもに悪口を言われている様な気がして靴を投げてしまったり、感情が抑えられなくなって、泣き出す様になり3カ月で日本に帰りました。帰国後、母親に『ちょっと遊び行こう』と言われて精神科病院に連れて行かれました。その時は『何でこんな怖い所に連れてくるのよ!』と言って怒って帰りました。その後、訳のわからない内に母親に病院に連れて行かれて薬を飲む事になりました。その時は何の薬か分からず、『飲まんなあかんのや』と思って飲んでました。その時は通院する事や、服薬する事を深く考えていませんでした。
 『いつまでもダラダラしてたらあかんで』と家族に言われてキャラクターショップで働き始めました。しかし3カ月で辞めてしまい、その後、看護師に戻りました。

 その時は、薬を飲んだり、飲まなかったりの生活が続きました。その頃から、彼氏から暴力を受けるようになり、ラジオとテレビから『東京においで』、『お金は払わなくていいんだよ』と聞こえてくる様になりました。そして、東京に行ったり、高いホテルに泊まったり、テレビやラジオの声に合わせて行動をとる様になりました。そのお金は全部カードで払っていて借金が200万円ぐらい出来ました。その頃から親にお金をお願いする様になり、心配になって母親が家に来ました。その時、私は3時間睡眠が続き、痩せ細っていました。母親が心配になり、『散歩に行こう』と言われ精神科病院に入院しました。その時、私は『何でこんな所に入らなあかんねん!』と思いました。なぜならテレビやラジオの声に合わせて、どこかに行ったりする事が楽しかったからです。

 その時はテレビやラジオの人と話したり、性交渉をしている感じもあり、嬉しかったです。そして、それが当たり前の生活になりました。6ヶ月後、退院して実家に帰り地域活動支援センターやディケアに通う様になりました。その時、私は34歳でした。
 退院したばかりの時は、しんどくて寝てばかりで起きるのがしんどかったです。ラジオの幻聴もあり、お腹を蹴られる様な体感幻覚もありましたが、36歳の時に地域活動支援センターなっつに来る事になりました。
 私の、しんどさは、お腹を蹴られる様な体感幻覚や、頭がおかしくなる事や急に息苦しくなる事、夜あまり寝れていない事、幻聴によって混乱する事や電車に乗って一人で行けない事などがあります。
 最初は、なっつに来て、ずっと寝ていました。ある人から会議に誘われてスタッフと一緒に活動していくうちに、頭の重だるさが取れて段々と家の洗濯が出来るまでになってきました。いまでも幻聴による行動の制限がありますが、仲の良いメンバーやスタッフと共に電車に乗ってレクに行ったり、旅行に行ったりする事も出来る様になりました。皆と一緒っていう安心感があるので行けるのだと思います。今も幻聴があり、しんどかったりする事もあるのですが、なんとか過ごせています。今でもサポートがないと遠くへ行く事が出来ませんが、安心して出来るサポートがあれば、行く事が出来ると思います。

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当事者作品

わかってほしい
わかってほしい
私のつらい気持ちあなたにわかってほしい

どんなに思っても
あなたは
私の心を助けてくれる言葉を言ってくれない

言ってほしい
言ってほしい
私に何か心が楽になること言ってほしい

あなただったら
私のこと
わかってくれると思うから何か言ってほしい

幸せなのに どうしてこんなにつらいんだろう

きっとあたりまえじゃない幸せがあるのに
それを幸せと思えないからだよ

人は みな幸せになりたいから生きてる
今より もっともっと幸せになりたいから

いつか いつかと
毎日を生きている
でも今を幸せと感謝してたら
もっと もっと幸せになれるよ

幸せになれるよ

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当事者作品(2)

      「救いの輪」

   みんな救いを求めてる
     癒しを欲してる
     どんどんすり減る
    それに応えるために
      そして私も
  ほかの誰かをすり減らしている
  
   そんな一方的な施しは
  本当に「救い」なのだろうか?

    持ちつ持たれつ
    まるく繋がる関係が
私たちの「救い」ではないだろうか?




      「春の雨にぬれて」

  さくらが咲いた 春の雨にぬれて

 強がっているように 泣いているように
 ふるえながら咲いている小さな花たち

その身に与えられた命を まっとうするために
     ほどなく散ってしまう命を
 粗末にすることもなく 卑下することもなく
    ただひたすらに咲いている

       それはまるで
 人の世のはかなさや苦しみから生まれる
    小さな小さな幸せのようで

  その幸せがいくつもいくつも集まって
ひとつの大きな木をうす桃いろに染めるように
  私たちの心に夢と希望を届けてくれる

 今年もさくらが咲いた 春の雨にぬれて

  そんな花たちに生きる勇気をもらった
      雨模様の日曜日




            「沈む夕日に」

   西の空を真っ赤に染めて沈む夕日をみていると
       今日の出来事が遠くかすむよ

目の前にあったときには とてつもなく大きなことだったのに
      いまはあんなに小さく小さく見える

        病院の先生には内緒で
       きょうは赤玉ワインを開けよう
      あの夕日をグラスに溶かし込んで

        そして聞いてみようか
       この苦しみもいつかきっと
     小さな小さな笑い話になるのかなって

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